拝啓、Z世代と言われる全てのネット民へ 2

「拝啓、Z世代と言われる全てのネット民へ 1」の続きです

jun50016.hatenablog.com

 

新しきは知るが古きは温めず

 

 このテーマについて論じるとき、古い価値観の代表例としてサンデーモーニングにて「喝!」でおなじみのハリーこと張本勲氏が挙げられる。今年番組を卒業したこともプロ野球の界隈では記憶に新しいのではないだろうか。番組卒業の理由は老後を自身の都合で過ごしたいという理由であったので批判が多いスタイルが不評であったのが理由ではないそうだ。ただ張本氏特有のこのスタイルはなかなか現代では受け入れられないのだろうか、サンデーモーニングの張本氏は基本的にSNS上にて「老害」と揶揄されることが多い。体感としては様々なスポーツコーナーへのコメントとしての批判(喝)と称賛(あっぱれ)が7:3な気がする。中には数々の時代背景を錯誤した発言はあるものの、多様性を主張するのならば彼らの生きた1940年代の価値観も尊重されるべきなのではないのだろうか。無論、不寛容な意見は看過されるべきではないが、こうした価値観を「尊重の上での修正」ではなく「早急な排除」に動いていないだろうか。

 

 またまた論語からの引用であるが「温故知新」という言葉がある。Z世代は「知新」のスペシャリストであると自身の世代を客観視したときに評価できる。自身で情報を集めて知ろうとする姿勢は非常に優れていると感じる。そうでは無ければ「何でもかんでもスマホで調べる令和の新入社員」というステロタイプは生まれない。自己解決能力は抜群であるが他者からの意見を伝承・口承する、まさに「温故」の部分に欠ける。Z世代がまだまだ思春期だからおじさまおばさまの話は聞き入れる気なんて毛頭ないかもしれないが、これを社会人に入っても続いてしまえばそれは思春期だからではなく、その人のそういった資質として形成されているのではないだろうか。

 

 具体例としては「ブラック校則」がこのテーマを語る上に欠かせない。校則は基本的に革新的なものではなく、保守的なものが大半である。ブラック校則はこうした行き過ぎた保守的な校則をSNS上で取り上げることによって是正される働きかけとなったわけである。もちろん大半の校則の改正案は合理的なものが多い。しかし、中には生徒の行き過ぎた要求があったらいいなという願望ではなく、達成するべき目標として主張された事例も見かけた。特に我々のような偏差値帯が属する自称進学校に見られがちな主張である。ここら辺の知能を持つ人間は「知新」にはこの世代の中で比較しても長けている。しかしなぜこのような校則が生まれたのかという根源を考えることはしない。だから君たちが出る大学群から自称進学校だと言えば怒られるのだが、根源を考えるという「温故」の部分にとても欠ける。経験主義ともいうべきだろうか。

 

 例えば自身の通ってた高校の例を挙げると、生徒に「部活動ユニでの登校を禁ずる」という校則が存在した(現在はどうなっているかは分からない)、多くの生徒は合理化の為に改正をすべきと主張したが、どうして今日まで禁止であったかを考える生徒は居なかった。それは自身も含めてである。今日まで禁止であったのは全ての教員がいくつもある部活動のユニフォームをすべて把握しているわけでは無く、防犯上危険があるという理由である。その高校は市内でも治安が良い場所にあるとは言えず、たまに自転車にいたずらが無差別にされるので、防犯上の懸念は最も優先される。こうした立地、かつてあったいたずらの事例を振り返ることは、過去より学ぶ重要性を痛感させられた。

 

 過去より学ぶことは多い。どうしてもZ世代の人間は「昔の事よりも今と将来」をモットーにしがちであるが、そうした人々は知らず知らずのうちに昔の行動を振り返らないからループに陥ることが多い。「温故」によってはじめて既知の領域と未知の領域を分類してそこから「知新」がなされるのではないだろうか。昔を知ってループから抜け出して将来を作る……。なんとも仏教で言うところの輪廻転生からの解脱のような世界観も有しているような気もした。

 

(続く)