拝啓、Z世代と言われる全てのネット民へ 1

 

前置き

 

 真面目な話はブログに尽きる…。Twitterの144字では収まらない。このブログのタイトルのZ世代の説明はここでは単純に10~20代の生まれた頃からネットが存在する人々としておこう。それ以上の定義はできない。ネットリテラシーが高いと言われているがそれは発言や炎上具合という外面上のみの話で、Z世代特有のインターネットの立ち回り、風潮といった言い換えるならば空気感などの内面的側面ではそうは思わない。その点でZ世代は彼らの親世代に当たるX世代や、SNSを思春期や青年期に迎えたY世代を凌駕する狡猾さを持ち合わせていると自身は思う。この文章は読むには長く苦痛かもしれないがぜひ読んで欲しい。

 

 

反響室にて生まれたZ世代

 

 反響室とは何であろうか。Twitterをはじめ多くのSNSでは自身の興味関心に基づくものをフォローする。その為自身の嗜好に合わせたタイムラインが形成され、そのタイムラインに流れるユーザーは基本的に自身の価値観とマッチするユーザーが多い。そのため自身の思考は肯定的なものが多い。そうなってしまうとあたかも自身の考えが一般的なものだと勘違いしてしまう。これがエコーチェンバー(反響室)現象なのである。これ以上の詳しい説明はwikiとかSNS関連の書籍等にに任せたい。

 

 よくSNSは開かれた空間と呼ばれているが、自身の価値観が似た者が集まる為にSNSは決して開かれた空間ではないのだ。SNSは自身の価値観が似た人々と交流するための移動コストがインターネットの恩恵によって0になった閉鎖的なコミュニティである。オフライン、現実世界の交流の方がそれぞれの人間に異なった価値観を有し、それが交わるためむしろ開かれた空間であると言える。

 

 初めからZ世代はこの閉鎖的な空間に産み落とされたのである。反響室にて生まれた我々Z世代は世間の常識は反響室の中で作られてきたのだ。それも類似する価値観の者同士で。そうなればどのようなことが起こるだろうか。常識はもはや常識離れを起こす。その界隈の中でのローカルルールが常識になる。それはもはや社会全体の常識であろうか。幼少期を平均化された社会にて過ごしたX世代、Y世代はこうした常識を見てきた。中には歪んだものもあったが、異なる価値観の平均化の中で歪んだ常識も覆されつつある。例えばそれは児童生徒への体罰であったり、パワーハラスメントジェンダー平等、家事の分担、国際化による外国人への適応…。様々な価値観がこうした問題を平均化した常識にした。

 

 もちろん平均化された常識は必ずしも全人類にとって良いものではない。例えばジェンダー平等においてのSNSでの議論は凄まじいものである。これは閉鎖された空間で常識ならぬ常識がそれが最も良いものとして完成されてしまっているからである。例えばフェミニスト(男女平等主義・女権拡張主義)とマスキュリスト(男尊女卑主義)の議論は双方とも自身の界隈の中に閉じこもってしまい、議論ではなくもはや喧嘩となっている。これはあくまで説明がしやすく多くの人が一度は目にする一例である。これは他の様々な界隈の口論において言える事である。そしてSNSでは常識は平均化されることは無い。彼らはこうした口論の後に多くは一度は平均化された常識を再び界隈の中で先鋭的な常識で上書きをするからである。

 

 最も望ましいのは全ての界隈から自由であるネット民になるべきであるがそれはSNSでは不可能である。なぜなら冒頭にも述べたようにSNSは趣味嗜好、思想をフォローによって最初に選択するという性質を持つ。その為違った趣味嗜好、思想を取り入れるのはアカウントを作り直したときにだけ起こるのである。反響室で生まれたZ世代は決してネット上で正常かつ平均化された常識を手に入れることはできないし、手に入れようとしてはいけない。

 

効率化万歳

 

 今ここまで読んでいる人は立派だと思う。なぜならばここで大体1600字かかっている。Twitterはどんなに長く書いても144文字。しかしながらこの144文字で真実に迫ろうとする人も少なくはない。この記事のように説明が長ければ飽きてしまうだろうし、Z世代は簡潔な説明を何より好む。個人的にはそんなことではデマゴーグにすぐにやられてしまいそうだ。長くて専門的な説明を初学者にする専門家は馬鹿だと言い捨てるのはあまりにも自身の理解力不足を棚に上げた発言だと思う。文字数にして1kbにも満たない説明をこの膨大な情報時代にZ世代の多数は求めるのである。

 

  YouTubeでも流行るのは最早10分の動画ではない。1分ほどのshortsである。切り抜きも人気があるし、漫画やアニメもネタバレ万々歳である。Z世代の人々は無駄をなくすことにご執心らしい。個人的には無駄をなくして効率化してしまった人間はコピー&ペーストのような面白みのない人間が出来上がるのではないかと案じている。更に初めから効率化を知ってしまえば何が無駄であって、どこを省くべきなのかを考える段階を踏まないため、自身で効率化を考えることは決してないのではないか。効率化を他者に委ねて思考力の欠落が働くのではないかと考える。論語曰く「学びて思わざれば則ち罔し」といった所だろうか。

 

 逆もまた然りで「思いて学ばざれば則ち殆し」ともいえる。前述の常識ならぬ常識は他者から学ぶことなく、Twitterの144文字といった自身の脳を使わないもので納得してしまい、自身の世界を構築した産物だと言える。こうしたTwitterなどのSNSを学ぶというのは最早思考放棄であると考え得る。自身にとって無駄だと思った情報は全てシャットアウトすれば他分野から学ぶ機会を失ってしまう。その結果が思考の視野狭窄なのである。この際老害と言われてよい。本を読め、本を。

 

 個人的な直観ではZ世代はいらぬ苦労をしたくないのだろうか。その本心はやはり他者が簡単に可視化されるSNSという環境からくる外的要因と、自分は他人よりもうまくやっていると感じたい自尊心からくる内的要因が作用していると考えられる。内的要因の他者への優位性は古くから存在した。しかし他者が常に確認できる状態にあるのはSNS時代を生きるZ世代特有のものではないだろうか。比べられるものの例としては学歴、就職、恋愛、部活動、挙句の果てには趣味まであらゆるものに優劣を24時間365日付けようとする。これを生まれたときから比べて生きていかねばならない。かつて人生が充実しているかどうかは主観的なものであったのに、今はこうしたことから相対化と均一化されつつある。そして遂にいらぬ苦労をせず涼しい顔をして生きることが上手くいっている人生というモデルになってしまった。

 

(続く)